自己開示(かなり長い自分史的な自己紹介)

自己紹介 6行

兵庫県宝塚生まれ。転校で広島、福岡でも暮らす。双子座 A型 ♂→♀
球技はとても苦手だけど、アウトドアーはいまでも大好き。映画も月イチ映画館ぐらい好き
インターネットが始まった頃、お客様の要請で独立、以来22年間、ウェブ制作に関わる。
UXデザイン(わかりやすさ)とCMS(お客様が自分で更新できるシステム)が得意。
最近はウェブコンサルティングを手がけると同時に、SNSの運用支援もおこなっている。
町田に住み始めて3年、コミュニティ賃貸を終の住処にすべく楽しんでいる。

自己紹介 要約

1967年6月 兵庫県宝塚生まれ 双子座 A型
子どもの頃から運動が苦手なわりにおしゃべりでいじめられるも
ボーイスカウトにいってたのでアウトドアーはいまでも大好き

中高生のときはバンド活動にはまってた。パートはベース。
ただ、広島、福岡と転校、転校だったので、いじめはずっとつづいていた。
大人になってカメラマン、グラフィックデザイナーを経てマルチメディアの編集者に
インターネットが本格的に始まった頃、お客様の要請で有限会社キゴウラボとして独立
以来22年間、ウェブ制作に関わっている。

UIUXデザイン(つかいやすさ)とCMS(お客様が自分で更新できるシステム)が得意。
近年では、ホームページは企業の経営戦略がそのまま現れると思い、
戦略の発掘からおこなうウェブコンサルティングを手がけるようになった。
またSNS時代のウェブマーケティングにも注目し、各種SNSの運用支援もおこなっている。

3年前に弟が持ち家を買った町田に住みはじめて、いまはコミュニティ賃貸マンションで
ご近所さんと一緒にご飯たべたり呑んだりして、ここを終の住処にすべく楽しんでいる。

性別不合(性同一性障害)なので、産まれた時は男性ですが、いまの心は女性デス。

はじめに

※この文草はとても長いです!

営業の本を読んでて、お客様に人となりをしってもらうためには、自己紹介(自己開示)が必要だって書いてあった。商品やサービスを買う時代から、誰から買うかのほうが重要な時代に移っていて、その重要性は高まってるらしい。

以前、元妻からあなたは転校や、付き合ってる人がかわるなど、変化が多くってわからなくなるから、年表つくって提出してって言われたことがある。さらに性同一性障害の診断を受けるときにも自分史が必要。こちらはジェンダーの揺らぎについて書くのだけど、幼少からの記憶をたどることになる。

自分史は、よく定年退職した、比較的立派といわれるお仕事をされた方が、老後の楽しみとして書いて自費出版するモノというイメージだった。自分史と自己紹介は違うものだし、そんな冗長な文章を見せられても誰が読むのだってコトになるけど、短い自己紹介を書くためにも、もう一度、妻や医師といった特定の誰かにみせるものではない、ニュートラルな自己開示を書いてみようかとおもう。

主に町田近辺の方に営業するために書き始めるのだけど、まだ町田にすんで3年目、どこそこ小学校出身ですとか、共通項を話すことはできないけど、なぜ町田で暮らすことを選んだのかは伝わるように書きたい。できれば町田を終の住処として暮らしたい今、そんなことを思ってる

かなり長めの自己紹介(自分史的な自己開示)

1967年6月16日

大阪府住吉区の病院で生まれる。生まれてすぐハハの実家を経由したかどうかは定かじゃないけど、兵庫県宝塚市の自宅に戻る。なので出身は宝塚

1973年

宝塚市立長尾南幼稚園に入園、生まれてから50代のいままでずっとくまのぷーさん体型の健康優良児、ぶーちゃんとあだなをつけられてすごく嫌だった。幼稚園時代からいじめをうける。そとで友だちと運動をするタイプではなく、ひとりで自宅で図鑑をよんでるか、レゴでお家を作るのが好きだった。弟がいとこの家にいって、りかちゃんで遊んでるのがとてもうらやましかった。このあとも弟がやってたことをあとから真似するコトがおおくなる。

1974年

宝塚市立長尾南小学校に入学、初恋の女の子が転校してギャン泣きする。担任の女の先生の金魚の糞のような感じでつきまとう。あいかわらずいじめは続き、先生がいないときは教室の本棚の裏に隠れてた。その割におしゃべりがとまらず、それボク知ってるって授業を止めるため、教壇の横に机をおかれて、しゃべり出すと先生が口をふさげるようにされた。のちに発達障害(多動性)と診断される

高学年になり、いじめられるのは運動が出来ないからだと担任に指摘され、先生と2人でドッチボールの訓練をすることになる。しかし、訓練の効果無く、あいかわらずドッチボールでは逃げてばかりだった。

学校外の仲間作りと運動嫌いをなおすためいれらたボーイスカウトは結構好きで、沢山バッチももらったし、いまでもアウトドアーが好きです。めざせキャンプ女子(ゆるキャン△)

1980年

宝塚市立ひばりヶ丘中学校入学。ギター部に入部。唯一の男子部員。先輩たちとフォークソングを歌うのが楽しかった。ただ、いじめはまだ続き、小学校同様、いじめられる原因は、男子独りでギター部にいて、運動ができないからだと担任に言われ、なかば強制的に柔道部に入れられる。でも柔道部も楽しかった。ひそかに想いを寄せていた女の子と、柔道部の先輩と3人でバンドを結成し、学校の裏で練習してた。

1981年

父親の転勤で、広島市立安西中学校に転校。時代は金八先生の腐ったみかんの時代、学校は荒れていて、ヤンキーが授業中も廊下を闊歩し、ナイフを振り回してる状態だった。おしゃべり癖は止まらず、この学校でもいじめられる。通りすがりに知らない男子からいきなり殴られたことも。ただ、いじめられたらやり返す、絶対服従しないと決めてたので、ヤンキーから500円貸してくれと言われたとき、あとから返してもらいに行った。ちゃんと言えば返してくれたことは、いまでも自分のプライドを守れた自負になってる。

1983年

広島県立祇園北高等学校に入学 のちのアンガールも卒業することになる進学校だけど、わたしがはいったときは第1期生で、まだ仮設校舎だった。生徒会はまだなく、生徒会の準備委員会の委員長として、規約の草案をつくるも、第1回の生徒会長選挙で惨敗。ほぼ出身中学校の比率で得票が決まっていた。その後、放送部の部長として学園祭コンサートで使えそうな機材を予算請求する。いじめはじわじわつづいてたけど、その頃は楽器屋さんにいりびたりで、同級生の女の子や後輩とバンドを結成して楽器屋さんで練習してた。

1984年

再び父の転勤で、福岡県立武蔵台高校に転校。高校での転校は難しく、どこにいっても断られたなかで、許可がでた数少ない高校の1つだった。学食あったり、ホールがあったり綺麗だったので選んでしまったけど、超スパルタ高校で、頭髪はスポーツ刈り、中間テストはない代わり、毎週テストで赤点とると大きなコンパスで殴られるという酷い学校だった。

0時間目や8時間目といった補習があり、夏休みも冬休みも補習の連続。学校の雰囲気はくらく、とうぜん上履きを隠されるとか、椅子に押しピンを置かれるみたいな、ありがちでとても陰湿ないじめを沢山受けた。唯一の救いは友だちに誘われた学校の端っこにこっそりとあった写真部の部室で、もう2年生だから部員にはならなかったけど、校門で前髪チェックされて、文房具のはさみで前髪を切られて泣いてる女の子を慰める場所でもあった。なので、後輩には慕われてたかもしれない。結局、最後は不登校になってしまい、先生に中退してもらってもいいんだぞといわれ、泣いて卒業させて下さいと言ったのは、いまでもトラウマになってる。今の時代だったら通信制高校に転校してたなぁ。

1986年

高校卒業、2つの高校の進路は全く違い、全然やってない教科書もあり、全く授業についていけてなかった。両親は、家庭教師を雇ってはくれたけど、もともと頭のよい家庭教師に基礎ができてない自分を教えることはできなかった。いまを思い返せば受験項目の少ない私立に絞ればよかったのだけど、金銭的な理由から、国立理系にいくように父から強く言われ、九州芸術工科大学(現九州大学芸術工学部)を志望校にがんばったのだけど、共通一次は平均点しかとれず、撃沈。志望校を信州大学繊維工学部に変更して2次を受けるもこちらも受からず。浪人することになる

予備校の短期コースにいってみるものの、そこでもマウントといじめを受け早々に辞めてしまい、1人で自宅浪人してた。とはいえ、そもそも習ってない教科書を自分ひとりで学ぶのも限界があり、両親もこんどは私立を受けていいといったので、志望校探しをする。

ずっといじめられてた自分は、組織で働くことはできないと思い込み、ひとり旅をしながら仕事ができればなと夢を描いてカメラマンになりたいと思い、日本大学芸術学部を希望した。その件を両親に話すもカメラなんて高いものは買えないとの一点張り。結局どこでなにをしたいのかがわからなくなる

出した結論は、一旦浪人はやめて、旅にでて考えるってことだった、母親にそのことをつたえ、荷物をまとめて、太宰府インターチェンジに行き、親指を立て、画用紙に東京と書いて、ヒッチハイクの旅にでた。目的地は、もうひとつの夢だった田舎暮らしの場所として当時ビーパルにエッセイを書かれてた方が住んでられる、長野県川上村だった。

1987年

いくつかの車を乗り継いで、途中から外国人ヒッチハイカーとも旅をしながら、到着したのは川上村のちょっと手間の清里だった。乙女の街としられる清里にはペンションやお土産屋さんが多い。泊まった清里ユースホステルのヘルパーさんに、この辺でアルバイトができるところがないかと聞いたところ、ちょうどユースの道路へだてて前にあるおみやげやさん兼レストラン「やまどり」で募集してるよと教えてもらう。さっそく相談に行き、住み込みで働くことになる。人生はじめてのアルバイトだった。

やまどりでは最初ウエイターとお土産屋さんが担当だったのだけど、そのうち珈琲の入れ方を教えてもらい喫茶を担当。その後、オーナーのおばちゃんが交通事故にあってお休みすることになったので、厨房をまかされる。その後、オーナーの息子さんがフレンチの修行から帰って来て、2人でメニュー開発をしながら、色んな料理の作り方を教わる。最終的には正式にアシスタントにならないかと言われたけど、木工作家をやりながらの田舎暮らしへの夢が捨てきれず断ることに。その結果、福岡に戻ることになる。

お休みの日は買った原付のオフロードバイクにのって信州を旅をして、山の上でハタチの誕生日を1人迎えた。CWニコルさんにも会いに行ったけど、結局会えなかった。

1988年

福岡に戻り、学校アルバムのカメラマンとして契約社員になり、北部九州の小中学校を訪ね歩く日々になる。修学旅行への添乗はとても楽しく、子供達からも人気ものになる。なかにはラブレターを送ってくれた女の子もいた。

ちょうどこのころ、武蔵野美術大短期大学部の通信制に入学し、木工作家への勉強をはじめるが、グラフィックデザインの授業が楽しくて、だんだんそっちに気持ちが移っていく。やっぱり木工作家より、カメラマンになって、グラフィック関連の仕事とかしたいなと先輩に相談したところ、本気でカメラマンになりたいなら、東京で修行しないとダメだよと言われる。初めて彼女ができたのもこの頃、でもすぐ別れた。

東京にでる決心をして、年末のお歳暮の配達で40万ほどのお金を貯め、そのお金を持って上京することになる。

1989年

アパレルの専門学校に通うために先に上京していた弟の部屋を一時的に借りて、夏のスクールングにかよい、その後、井の頭線の三鷹台駅近くのアパート借りて住む。

いとこの友だちのカメラマンのところに、アシスタント兼カメラマンとして勤める。アシスタントはロケアシといわれる派遣のアシスタント。カメラマンはもうシャッター切ってたんだから、その感をわすれないようにと、埼玉の百貨店のチラシ撮影の仕事をくれた。その後、ロケアシにいったところからカメラマンとしても手伝って欲しいといわれ、インテリアや、ビルの外観などの撮影をした。大きなスタジオでセットを作った上で天井からユニットバスの撮影をしたり、セスナに乗って、フェリーの撮影をしたりもした。

1990年

カメラマンとしても順調で、バブルの終わりだったので、まだ始めたばかりなのに、こんなにもらっていいのって言うほどギャラがあった。アシスタントとして採用された女の子と、マニアックな映画の話題で盛り上がり、結局であった日にその子はうちに泊まりに来た。その後、彼女はアシスタントを辞めたけど、5年近く同棲することになる。

1991年

師匠とちょっとした意見の違いでぶつかり、仕事をもらえなくなる。ちょうどその頃コマーシャルフォトという雑誌で、Photoshopなるソフトで写真を加工した作品が発表され、とても惹かれる。普通の物撮り写真をポートフォリオとしてもっていくより、こういう作品をもっていったほうが仕事が増えるじゃないかと思い、1年限定でPhotoshopがあるでああろうデザイン事務所に潜り込む計画を立てる。

とはいえすでに24歳、デザインを始めるには遅く、何社も面接を受けるもなかなか受からず、結局、八丁堀にある小さなデザイン事務所で拾ってもらった。まだロットリングとレイアウト用紙でデザインしていたその事務所の片隅に、ほこりをかぶっておいてあったMacintoshIICxに、Photoshop1.95とillustrator88が入っていて、それを使って、独学でDTPを覚えるコトになる。

1992年

2万円かかるDMの版下が、Macをつかうと1500円で出来ることに社長は感動し、これからはDTPだと、Macを追加購入することを許可してくれた。その後、旅行パンフレットなどの大型のDTP案件がはいり、そのリーダーとして同僚や先輩に使い方を教えることになる。

デザイン会社のほうは順調にいってたのでけど、同棲していた彼女が派遣切りにあい、実家にもどり、結果的に距離が深まり別れることに。当時住んでいた彼女の家を引き払うことになり、そのショックでデザイン事務所を辞め、当時、実家が転勤でひっこしていた千葉県船橋市に身をよせることになる。

ほぼ引きこもり状態になった自分に、母がまた旅にでれば、こんどは外国とかいってみればいいと行ってくれて、友だちがバックパックしてよかったよっていってたヨーロッパに撮影旅行にいくことにした。結局、13ヶ国3ヶ月にわたって、まだユーロ統合前のヨーロッパを旅することになる。

1993年

ヨーロッパで撮影してきた写真は2種類、雑誌に載ってそうなフォトジェニックな写真、もうひとつは旅でであった子のポートレイト。どちらの写真が魅力的かわからなくなり、銀座の輸入カメラのお店でアルバイトしながら、夜間の写真学校に通うようになる。そこで初めて友だちらしい友だちと出会うことになる。

1994年

弟がアルバイトしていた編集プロダクションでDTPができるデザイナーを募集してると聞き、学校に通いながら働けるコトを条件に転職する。仕事場所は小学館への出向だった。その後、DTP作品は完成し、本社にもどって正式に正社員になる。

時代は、インターネット前夜。CD−ROMというディスクに電子図鑑やゲームのようなマルチメディア作品を入れて販売し、電子出版の可能性を探ってる時代だった。当初デザイン担当だったけど、結局企画を任されることになり、マルチメディア作品の編集者という位置づけになる。代表的な作品はモーツアルトを縦横無尽に検索出来る[モーツアルトアーカイブ」ひとりでデータベースエンターテイメントという切り口がこれからの電子出版にあるんじゃないかって思っていた。

1995年

Windows95が発売され、インターネットのプロパイダーもでき、インターネットの世界へみんながどっと押し寄せるようになった。まだコーポレートサイトもない大企業から、採用情報のホームページを発注されるようになったのはこの頃だった。94年当時から小さいホームページは作成を開始してたのだけど、マルチメディア作品の編集で忙しく、なんかホリエモンといあうやつが大儲けしてるって噂を聞き、焦っていたんで、95年になってホームページに力をいれられるようになったのは、よかった。まだブラウザーを買いに行ったり、雑誌の付録からいれて使う時代だった。写真学校を卒業したものこの頃。

1996年

不動産業界誌の出版社から、コーポレートサイトのご用命。ディレクターとして要件をまとめ、デザインをおこし、2人ぐらいでコーディングをして納品。先方の反応はよく、その後の大規模リニューアルも頂くことになる。この時の担当編集者が結果的に弊社に参加してくれ、そのご15年間生活をともにする元妻になる

1997年

クラブで出合ったこ子と意気投合して、その後、元々妻になることなる。2人はタイガーマウンテンというパソコン通信の仲間でもあり、その繋がりもあったので仲良くなった。

1998年

息子が生まれる。住まいを西荻窪から、元々妻の義母が経営してる船橋のアパートに移りすむ。夜泣きが激しい息子のうちに、くるまのマフラーのような筒をつけたら音が小さくなるのかもっておもってやったら、息子を殺そうとしてると元々妻に誤解され、関係がわるくなる

1999年

船橋郊外のアパートまで、終電で西船橋までいって、そこからスーパーカブで20分かけて帰る日々。仕事が忙しくって、家庭を顧みる暇がなかったのは反省点

2000年

現在のスマホでマンガをよむような電子出版が主流になり、マルチメディア作品はインターネットにおされて下火になる。会社的にはマルチメディア担当部署は解体し、マンガのスキャニング事業に舵を切ることに。企画編集の仕事ができないから残る意味ないなと考えてたころ、小学館辞書編集部から、辞書事典も全面的にインターネットにシフトするので、デザイン面から支援してくれる会社をつくって独立しないかとオファーをうける。

3月には退職し、企業準備をしながら、元妻さんの会社のリニューアルを行う、このサイト、ライターが投稿し、編集者が承認して公開する、いまでいうCMSの走りのようなもの、わたしはこれを切り出しパッケージとして売りたいと言ってたのだけど、エンジニアがそれでは自分達の仕事が減るから嫌だといわれ。計画は実現しなかった。

7月に、写真学校での友人、前職の後輩の3人で有限会社キゴウラボを設立する。当初は小学館の仕事ばかりだったけど、すごく儲かった。この1社依存体制がのちに経営を圧迫していく。

2001年

公私共々たすけてくれた、スタッフの元妻さんと、一緒に暮らすことになる。理由はあまりも忙しく、船橋まで帰る余裕がなかったので、事務所の床に寝袋引いて寝てたところを救済された。マンション物件だったのでシャワーはあるけど、洗濯は近くのコインランドリーにいってた。元々妻さんとの距離はどんんどん離れ、その後彼女が彼氏と駆け落ちしてしまったので、結果的に離婚することになる。元妻さんとは長いあいだ事実婚だったけど、息子が中学校にはいるときに、いろいろ面倒くさいからということで入籍をした。

元妻さんは妻というより、ビジネスパートナーって感じだった。インターネット黎明期からお客さんと業者という立場で、インターネットビジネスを一緒に切り開いてた戦友って感じがあった。なので公私ともども依存してしまって、仕事がうまくいかないときには当たってしまった。また、朝おきたら「ともくんかわいい?」って聞くのが習慣、この頃からかわいいが好きになり、女子化が始まってたと思う。

2002年

仕事があまりにも忙しく、うつ状態にあり、弟の紹介で心療内科の門をたたくことになる。父が亡くなったのも、その原因のひとつかもしれない。息子と父は葛藤があるものなので、いなくなるとぽっかり穴が空いた感じになる。武蔵美通信が4年生になったのを機会に復学する。

2003年

元々妻さんが行方不明になり、むすこが義母の実家に預けられてることを知り、元妻さんに相談したところ、うちで引き取ろうよ、だってずっと息子にあいたいっていってるじゃないといわれ、車でむすこを引き取りにいく。保育園にいれようとしたら、父子家庭より母子家庭優先といわて、待機してる間の1ヶ月間、会社は元妻にまかせ、ひさしぶりに仕事をやすみ、ずっと息子と過ごしていた。

2004年

息子、小学校にはいる。手狭だったけど、山小屋風できにいってたアパートをはなれ、環七を渡った近くの家に引っ越す

仕事的には「カクエキネット」という鉄道オタク向けサイトをつくり人気になるものの、広告も課金も担当編集が勇気がなくできなったため、マネタイズできず名残惜しいまま終了する。そのサイトで人気になった全駅におりた横見さんが、そのキャラクターの魅力から「鉄子の旅」というマンガになって、人気を博した。

2008年

iPhone日本上陸、初日の深夜に表参道のAppleストアーに並び、初めてのスマートフォンを手にいれる。途中、SoftBankの孫さんがいらっしゃり、握手してもらう。このころに小学館はウェブ制作の子会社を設立したため、仕事が激減し、他に営業をして仕事をするようになる、ブログブームのころにサントリーやJTBのブログ運営をやったり、CMSに強い経験を生かし船橋市立医療センターのサイト制作をやったりして、お客さんの幅をひろげるようにがんばった。

2010年

息子、中学校にはいる。それをきっかけに事実婚から、入籍をして正式な夫婦になる

2011年

ペットの犬、猫が相次いで亡くなる。なくなる前の1年間は、2人で交替で点滴を打っていた。なくなるとはやりペットロスになるけど、元妻さんのショックのほうが大きかったかも

2013年

息子、高校にはいる 金髪だろうがピアスしてようが問題ないとても自由で自主的な高校で、中学時代少し人間関係で苦しんだ息子も、この高校では居場所を見つけて自由に勉強してるようだった。

2015年

あたらしい猫(クロネコ)がやってくる。いまは元妻さんのところに引き取られた

2016年

息子、早稲田大学文化構想学部入学、予備校にも行かず、よくやってくれた

2018年

ウェブマーケティングを成功させるには、より根本的なところを分析して、戦略を明確にしないといけないと思い、Web解析士、AB3Cファシリテーター(ウェブコンサルタントの資格)ウェブアドバイザーなどの資格を相次いで取得した

2019年

息子、大学卒業 一部上場会社に就職 寮にはいることになり、部屋も余るから引っ越そうかと相談したら、元妻も独立したいと。編集の仕事が一段落し、わたしとの関係もここ数年距離をおいていたから自然のながれかなと。そこで3人別々にくらす家族解散をして、15年暮らした世田谷の家を引き払い、わたしは町田市の鶴川にアパートを借りた。

町田にした理由はいくつかあり、1つは弟が町田に家を買って暮らし始めたこと、もうひとつは鶴川のお寺さん(こないだ全焼した)のサイト手がけて、地図とかつくったので、鶴川に土地勘があったから。あとは小田急線で暮らすのが好きだったので、小田急線沿線で物件をさがして家賃的にも手頃だったからだった。

2020年

暮らし初めて半年ぐらいでコロナが流行し、仕事が激減する。子育ても終わり、元妻とも円満離婚したあと、何をやっていくのか、何がやりたいのかをとても悩んだ。ストレスは買い物に行ってしまい、お金もないのに車を買ってしまう。軽自動車だけど。

初めは仕事のことを考えてたのだけど、もっと根本的な根っこにあるものをさぐっていたら、実は女子になりたかったんじゃないか。というかわたしの性自認は女の子なんじゃないかってことに気がついた。ネットで女性化についての情報をあつめ、乙女塾を見つけて授業を受け始める

その後スタッフ募集に応募し、初めて1年目なのに乙女塾の裏方になる。ジェンダークリニックでなんとか性同一性障害の診断書を獲得し、健康保険証のなまえを通称名のみなみに変える。幼少からの違和感や身体的違和感の薄いわたしは、単に元妻さんと別れたショックでそんな誤解をしてるだけじゃないのとも指摘する声もあるけど、女性化してから自分の気持ちが自然になって、楽になったのは事実。ただしメイクはするけど女装癖とかないので、普通です。

2021年

鶴川はいい町で、いまでもちょくちょく帰るけど、アパートは当然住民の交流とかなくコロナで誰とも会わなくなったことで、極度の孤独感にさいなまれた。最初、猫でも飼おうかなとおもったけど、友だちに独居男子が猫を買うなとディスられ、実現できなかった。

ペット可住宅を近くでさがしていたところ、本町田にコレクティブハウスという住民が一緒に暮らしをつくっていくコミュニティ賃貸があることを見つけた。興味本位で何回か見学をさせてもらい、コモンミールというみんなでご飯つくって食べる会にもご招待いただき、痛く気に入ってしまった。

鶴川の家が2年目になり更新になったため、それをきっかけにまちのもり本町田にひっこし、コレクティブのメンバーとなる。最初は連日のミーティングに困惑もしたけど、メンバーの人達は仲良く、いじめられることもない(大人だから)ので、孤独感がなくなり、とても安心。ただ駅からバスになり遠く、まわりにはスーパーぐらいしかないんで、鶴川にくらべると不便。たまに鶴川に帰りたくなるけど、いまの人間関係を考えると、まちのもりで暮らしていきたい

入居にあたって、たまに女子のカッコをしてうちょろするけどいいですかと聞き、自分が傷つかなければいいですよとの回答をもらい、まちのもりではカミングアウトした状態で引っ越した。なので、ちょくちょくひらかれる女子会にも呼んでもらい、友だちも沢山ふえたのは財産だとおもってる。

2022年

6人いた会社が、わたし1人になり、働き方や商品やサービス、商圏とかを考え直す必要がでてきた。大きな仕事は東京全域を対象とするけど、小さな仕事は町田を中心に多摩・相模原、川﨑市麻生区あたりを対象に営業したい。ねっこが編集者・デザイナーなので営業はとても苦手。今頃営業術の本をかって読みどうやって仕事を取ろうか考える日々 とにかくいまは町田の街を覚え、ここに根っこを降ろしたいとおもってる。

いずれにせよ、もう子育てもおわり、元妻とは円満離婚してるので、なんとなく気持ちは老後モードなんだけど、やり残したことは、女子になることと、ちいさな出版社を作る事、それもデジタルに強い出版社をいつかやりたい。当面はオウンドメディアになった、乙女塾の裏方としてお手伝いをし、スタッフのみんなと仲良くなり、そこから新しい仕事が発生すればいいなと思ってる。

短期的には、UXデザイン診断を受けた会社が、その後ウェブコンサルティングでAB3CフレームワークをつかったAB3C道場を受けてもらって、その結果をウェブやSNSの活用方法やリニューアルにつなげて、顧客の経営やマーケティング的な問題を解決する。そんな仕事がしたいです。

結局、デザインは着飾ることではなく、問題解決のための手段だから、単に見た目のデザインをするのではなく、経営問題の解決とか、デジタル化の推進とかそういう場面にデザインの考え方を応用していければとおもう。すでに経済産業省がデザイン経営と言う言葉でそういうのを推進してるぐらいだから。デザイン思考とビジネスは相性がとってもいいです。